入門 哲学としての仏教 (講談社現代新書)
価格:¥ 777 (税込)
出版:講談社
カテゴリ:新書
ページ:264頁
JAN:9784062879880
Amazon.co.jp 売上ランキング:本で39845位
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レビュー
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何と情けない本出したんですか?仏教は文献学ですか?違うでしょう。 Date:2009-06-12 おすすめ度 ![]() 約30年前に、真摯な西洋人達によって仏教は深く研究されました。その時代には、日本仏教などは相手にされませんでした。仏教は哲学ですが、西洋哲学とは全く違います!相補的でしょう。仏教は過去の文献を学ぶものではありません。他のレビューアーさんのおっしゃる通り、仏教等では、直観性、全体性、非言語性に因って、(西洋でいう智慧)に似たものは加法性がなく蓄積しない。だから、仏教等は遅々としたままだったのです。以上は受け売りです。既に、20年以上前に他分野の研究者によって仏教の本質は理解されていたのです。仏教は「超モダン、西洋哲学者、心理学者、エコロジー、ゼノンのパラドックス」云々は専門家として恥ずかしくありませんか。あのレビューアーさんが原始仏教の哲学博士でもあること知り納得しました。博士のゼノンのレビューでゼノンのパラドックスは、この新書よりどの様に難しいかが分かりました。この本は、言い訳がましいところを抜かして読めば、日本の仏教の概観ができますが、漢字用語が多すぎます。 |
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開かれたスタンスで仏教に分け入る本は貴重 Date:2009-05-27 おすすめ度 ![]() 仏教の概説書は仏教用語の解説から入るのがふつうだ。無常とは、覚りとは、空とは、華厳とは、業とは、輪廻とは、唯識とは、解脱とは…?といった具合に。 それは仏教の側に立った、仏教の都合による説明といえなくもない。著者もこれまで、例えば『「覚り」と「空」』(講談社現代新書、『インド仏教の歴史』と改題して現在、講談社学術文庫に入っている)や『華厳とは何か』(春秋社)に見られたように、そういうスタンスで本を書いてきたと思う。戦後教育は西洋的教養を基盤とし(そのこと自体、問題とされようが、それはさておき)、その中で育った世代にとって、仏教の教義・思想はどこか特殊で入りずらいものがあったように思う。 その点、この本では「哲学として」仏教を語ろうとする。そもそも哲学とはギリシャに発する思考態度で、そこから西洋哲学が展開された。もともと東洋思想には馴染まないものである。「哲学として」仏教を語るとは、西洋哲学と東洋思想の間に架橋する営為といえよう―これはなかなかできることではなかったろうと思うのだ。先駆的存在としては西田幾多郎、近年では井筒俊彦『意識と本質』(岩波文庫)が代表的といえようか。もちろんこれらに比肩しうるのは至難だが。 先行レビューになぜ25年前にできなかったのか、との論点があったが、この著者にしてそれだけの時間の蓄積を要したのであろう。そうしたことを感じさせる一冊である。著者の論法に抵抗感をもつ向きもあろうが、啓蒙書における便法(これも仏教用語だったか?)と見たい。いろいろな試みがあっていいのではないだろうか。同じく講談社現代新書から出た武澤秀一著『マンダラの謎を解く』でも感じるのだが、開かれた「哲学として」仏教を横断的に語れる人は稀有だし、その著書は貴重と思う。 |
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やはりもうひと工夫必要かな。。 Date:2009-05-17 おすすめ度 ![]() ともすると骨董めいた過去の遺物のように思われがちな仏教哲学が、 実は現代の最先端を行く物理学や言語哲学、生態学などを先取りしていた、という論じ方自体は、 どこかで見たような光景、という以上の感慨をもたらすものではなかった。 気になったのは、「仏教とは実にモダンではないか」という言い方が何度も繰り返されることだ。 言わずもがなのことだが、モダン=かっこいい・洒落ている、という価値判断自体が、 そもそも近代以降の進歩主義史観に沿ったものでしかなく、 少なくとも仏教本来の考え方の中にそのような視点はないはずなのだが、 本書では仏教の時間論についても論じられているにもかかわらず、 そのような言い方が無批判に採用されてしまうということ自体、 現代という時代において仏教哲学を骨身のレベルで理解し、 実際の生活に活かしていくことの難しさを、逆説的に示しているように感じた。 (まあ、著者からすればこの言い方も方便なのだろうが、 それはそれとしてひと言断りがほしかった。) また、これはかなり個人的な感想になるが、 たとえば数や時空の本質について自分の頭で徹底的に考え抜いた結果、 これしかないという形でまったく独自の世界観にたどりついた数学者や物理学者が語る 確信に満ちた言葉の数々に比べて、仏教学者の哲学理解というものが、 しょせんは過去の賢哲の言葉を受け売りしているだけの、 どこかあやふやで底の浅いものに思えてならないことも多い。 では著者が言うように修行体験があればいいのかとなると、そうとも限らないはずで、 数学者や物理学者(のほとんど)はとくに瞑想などをしているわけではないだろうし、 結局、原典読解の語学力にキャパの大半を取られる仏教学という学問の在り方自体に、 自由な思考を妨げる構造的な問題でもあるのかもしれないとしても、 ニーチェなどはもともと古典文献学者だったのだから、それも言い訳にはならない。 中沢新一のような偽者ではない、真の天才って出現しないものだろうか。 |
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素晴らしい本です Date:2009-04-30 おすすめ度 ![]() 本書は、実は我々のすぐそばにあった仏教の哲学、しかも実践としての哲学を丁寧に教えてくれます。日常行為の根拠を問うこともなくあたふた生きている私は、教養として、知識として西洋哲学を遠目に眺めておりましたが、思考の習慣性を相対化させ、その世界を変えるには仏教も学び、少しでもその哲学を浸み透らせて行動に移すことが大切と実感させてくれました。 |
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この新書が25年前に書けなかった・・・そりゃそうでしょ!でも、私は東洋神秘思想も新しい科学論も論じました、素人なりにですが、一般人や哲学者へのレクチャーで。 Date:2009-04-29 おすすめ度 ![]() この新書の序を読んでいて、レビューアーは感じざるを得なかった。この様なこと、今の若き人たちが生まれる以前に既に論じられたことだと。実際、レビューアーは「全体から部分へ」、「ニューサイエンスの思想とパラダイム」等の小文で“全体はより基本的な部分の総和としては認識できないとする全体的、総合的思想がある。これは主に有機的世界観を創り出した東洋思想にみられる直観的総合把握として知られている。”、“細分化、孤立化を生んだ西欧の世界観に対する精神的危機感は、孤立した個としての自己を超越して、究極のリアリティーと一体化することを目的とする有機的東洋思想に智慧を求めさせたことは、西欧における禅の普及などによって知られている。”、“西欧自然科学の著しい成長、拡大は、その智慧の加法性による。”、“有機的東洋思想による知識(知識と表現するのは不適当だが)は、その直観性、全体性、非言語性から分かるように加算的ではない。”、“今世紀までの分析要素的還元法の過度の一方的拡大は、それを補うべき全体的方法論を必要としている。それはまだ確立されていない。多くの斬新な提案が期待されている。”以上多すぎたレビュ−アー自身の拙文の引用お許しください。これらは物理学徒としての言葉であった。しかしながら、それらを専門とする仏教者、仏教哲学研究者による議論も論文はレビューアーの知る限りなかったし、逆に哲学研究者にレクチャーを依頼されて、正直、困惑した・・・“今こそ、あなた方出番でしょう”と思ったからです。そしてそれは果たされず、多くの人の記憶から忘却の彼方に去った。レビューアーは日本仏教には全く興味がなく、仏教発祥の地まで行って原始仏教を老師から学んだのは、その後しばらく経ってからです。この種の哲学研究者による本等が25年ほど前に書かれなかったことにレビューアーは不思議に思う。なぜ今頃になって〜。なぜなら、この著者はレビューアーと1歳しか違わないし、当時の新しき包括的理論の提唱のムーヴェメントを知らないはずがないないからです。トランスパーソナル心理学の代表的理論家Ken Wilberは論じましたよ「The Spectrum of Consciousness(1993)」と「The Holographic Paradigm and Other Paradoxes(1982)」で。日本でも、それぞれの翻訳書が大きな話題になった。とくに「意識のスペクトル」を読んだ方は、この新書をお読みになったらどう思うでしょう!!本著の目次。序:仏教はとても斬新な哲学である。第一章:存在について---本体なき現象の生成。第二章:言語について---その解体と創造。第三章:心について---深層心理の奥にあるもの。自然について---自己と環境の哲学。第五章:絶対者について---絶対無の宗教哲学。第六章:関係について---その無限構造の論理。第七章:時間について---絶対現在の時間論。結:「哲学としての仏教」への一視点。あとがき。からなる。この著者は日本で形骸化している仏教が西洋哲学に勝ることがあっても劣ることがない宗教哲学であることを何度も何度も異なる視点から述べ、西洋の哲学者、心理学者などを例にあげ、それらのことは、遥か昔に仏教哲学で明らかにされたことを説いている。では、なぜそうならなかったのでしょう。今頃後出しジャンケンは、ぼろが出る。著者はこの著書を英訳して世界中に出版出来ますか。著者のお話は日本だけに通ずる日本仏教界の苦肉の考えですね、でしょう。若人をお騙しなさるおつもりでゴザイマスカ。仏教はブッダの偉大な哲学です。日本では知らないがインド、スリランカなどの異教徒でさえ仏教は哲学である、と思っている。学歴もなく貧しい暮らしをしながら英語を習得し、現地のホテルで働くボーイでさえきちんと自分の宗教観を述べることができる。仏教が宗教哲学であることに勿論異論はないし、著者は専門家でおられるから限定日本仏教の考えは参考になりました。物理学等に関連する事では理解があやしいですが、それはこの著書の主張を損なうものではありません。しかし、ブッダによる仏教哲学と西洋哲学は相補的で共に人間に必要であると思います。諸宗教中、日本で仏教が広がらないのはサンスクリットからの漢訳語のままでいることにも深い関係があります。キリスト教の聖書は各国語に翻訳されていますし、できます。しかし、仏教は本来言語宗教ではありません。従って、言語化して、言語変換を何回か繰り返すとオリジナル仏教とはかけ離れたものになります。中国を経て日本仏教になってからの変性は必定だったでしょう。最後に、有機的東洋思想による悟り?(智慧と表現するのは不適切だろう)は、その直観性、全体性、非言語性等から分かるように加法性を持たない。従って“深い東洋思想”は人一代限りの連続で、それは受け継ぐことは不可能に近い、進歩がなかったのは、西洋文明と比較すれば明らかで、とくに日本では我々も仏教人も西洋科学の恩恵なしには生活は立ちいかないのが現実です。ですからこの新書は過去の教則本から学者が作りだした絵空事ではないでしょうか?繰り返しになりますが、いくらわれわれが多くの芸術作品を鑑賞、研究しても、それ以上の作品を創り出せないのに似ている。芸術作品はそれ自体で全てであり、それ以上、以下という概念も意味がないであろう。このような有機的世界観を直接とらえようとすることは、対象を要素に分けて分析することに慣れているわれわれにとって困難なことである。全体の有機的な動的関連を通じて部分をとらえようとすることの必要性は多くの分野で前世紀から語られている。それは単に東洋思想を学び実践することでは解決しえないのである。それでは、単なる回帰でしかない。これは、25年前の思想家、科学者の到達点であった。これらに関する議論は、この著書ではなされていない。「今こそ仏教を読み直す!」だけではすまないのである。東洋思想も西洋思想も、共に我々には必要で相補うものではないのでしょうか。 なお、ブッダの本当の教え(原始仏教)は、ブッダの死後約100年で滅び、インドにおいても忘れ去られた。それを復元・再構成したのは19世紀のヨーロッパの仏教研究者である。日本人がそのことを知ったのは明治以降のことで、元来の仏教は、皆さんが普通に知る日本仏教とは違うものである。これは世界の常識であることを記しておく。 |


